イベント記録

日本薬学教育学会 「望ましい研究のあり方」田中智之

シンポジウム「薬学人のアイデンティティを支える研究倫理」(入江徹美、有田悦子)

要旨

医療分野の高等教育において、実験科学のカリキュラムがもっとも充実しているのは薬学部であり、薬学生は、自ら実験し、データを収集、解析する中で、研究倫理に触れる機会をもつ。検量線を作成する際に外れ値を無視して直線を引いたり、仮説にあわない結果を指導者に報告せずお蔵入りさせた学生が指導教員にたしなめられるというエピソードは珍しくないだろう。自らが集めた証拠でもって自説を主張する、こうした一種の「自作自演」が研究者に許されているのは、「間違うことはあっても嘘はつかない」という社会からの信頼があるからである。研究倫理の講習会ではしばしば「何のために不正をするのか私には理解できない」という感想をうかがうことがある。自然現象を解き明かしたい、あるいは新しい治療薬を開発したいといったモチベーションが満たされている研究者にとって、研究不正は本来の目標からむしろ遠ざかる理解不能な行為である。しかしながら、研究不正、あるいは疑わしい研究活動(Questionable Research Practice, QRP)は珍しいことではない。オランダの調査では、過去3年間に研究不正を経験した人は8%、QRPでは約半数に上る(Gopalakrishna et al., 2022)。このことは、少なからぬ研究者が自らのモチベーションを最優先できない何らかの事情があることを示唆している。また、初めて研究に携わる際に受ける指導者の方針は、その後の研究生活に強い影響を与える。最初の指導が不適切な場合、その後のキャリアの中でそれを修正することは難しいことがある。e-ラーニングやFD研修会のような学修がどの程度受講者の行動に影響を与えるかは明らかではない。ここでは、さらに一歩踏み込んで、研究者の行動規範とそれがもつ意義について考えたい。

1942年に米国の社会学者のMertonは、共有性(Communism)、普遍性(Universalism)、無私性(Disinterestedness)、懐疑主義(Organized Skepticsim)という4つの原則(CUDOSと呼ばれる)を科学者の行動規範として取り上げた。科学研究の成果が社会に大きな影響を与えることが認識されている現代では、CUDOSを遵守することが難しいこともあるが、研究者が立ち返るべき原点である。SARS-CoV-2のパンデミックでは、改めて科学研究が注目を集めた。現代社会における困難な課題を解消するためには専門知の活用が欠かせないが、その際に大切なことは専門家が適切にその責任を果たすことである。自らの専門性に基づいた意見を正確に分かりやすく伝えること、専門外のことについては軽々しく意見を述べないこと、間違いがあれば直ちに訂正すること、といった基本的な姿勢をもたない専門家が社会からの信頼を得ることは難しい。全ての薬学人が健全なプロフェッショナリズムを発揮する上で、研究公正について学ぶことには大きな意義があるといえる。